« 喫茶セブン@京都 | トップページ | MAUI COFFEE ROASTERS(マウイ・コーヒーロースターズ)@広尾 »

2009年3月17日 (火)

KARAIMO BOOKS(京都)と石牟礼道子の悶え神

京都・二条にある雨林舎の扉を開けたらあいにく満席。おもての黒板の下に1行、「3月10日、KARAIMO BOOKSオープン」と書かれてあるのをみつけ、先にそちらに行ってみることにしました。雨林舎で働いていたオーナーの弟さんご夫妻のお店だといいます。

古書店KARAIMO BOOKSは二条駅前からタクシーで15分ばかり、運転手さんによれば「こんな場所に店があるやろか」という小路に、なんでもない風情で扉を開けていました。ごく普通の民家で、以前は小さな服屋さんだったとのこと。こじんまりした古本売り場の奥に、靴を脱いであがる喫茶と日本酒のスペースがあります。

Karaimo_01

書架をざっと一瞥しただけでは傾向がうまくつかめなかったのですが、店名の由来をたずねたり、喫茶スペースにあがってぐり茶を飲んだりしているうちにKARAIMO BOOKSの世界に引きこまれ、東京に戻る新幹線のなかで、数年に一度あるかないかという出会いを手にしたことを知りました。店頭で購入した石牟礼道子の『陽のかなしみ』。

唐芋(からいも)は南九州でさつまいものことを呼ぶ名。KARAIMO BOOKSは南九州にフォーカスした珍しいお店なのです。しかしオーナー夫妻は京都のご出身だそうで、それではなぜ南九州、と訊ねると、石牟礼道子の本がとても好きなのですと奥さまが答えてくれました。

高校の補習の授業中に、題材としてとりあげられた石牟礼道子の文章に出会い、この作者が行きたいと願って果たせない世界というものが、自分が願っている世界と同じものだと感じたという彼女。語る言葉にしっかりと文章を読んできた人ならではの厚みが感じられ、そんなふうに読まれる作家なら読んでみようと、古本スペースのレジの前に並ぶ石牟礼道子の著作の中から1冊を買いもとめたのでした。それが『陽のかなしみ』。

多数のエッセイをおさめた450ページを越える厚い文庫本で、今日読み終えたばかりなのですが、巻頭に置かれた『あやとり祭文』と『ことば以前』、『気配たちの賑わい』の3編で目のくらむような衝撃を受けて、あとはもうひたすら石牟礼道子の紡ぐ言葉のとりこに。

たとえば『あやとり祭文』では筆者の幼年時代の、気のふれた祖母との“会話”が綴られます。

 孫は、祖母のものいいをそっくり覚え、その魂に描かれる絵に夜の海が拡がって、三日月さまがあらわれます。
 このような会話を交わしあったわけではありません。盲で気のふれた老婆と、その孫娘がやっていたのはたぶん、声に出さない言葉の所作事だったと思われます。雪国の子どもたちがつくって遊ぶというあの<かまくら>に似た、いわば<声のない言葉のかまくら>をつくり出し、ひとには見えぬその洞(うろ)の中に這入って、遊んでおりました。現世からすこしはずれた仄暗がりに、ふたりだけのかまくらをつくって。
 ひとには見えぬその洞(うろ)は幼女にとって、たぶん最初に意識されていた劇の宇宙でした。覚える片端から、言葉は、演じるためにありました。老婆の言葉は、立ちゆらいでいる生の実質でした。自他のいのちの劫火に焼かれて煎じつめられ、立ちのぼる間ぎわに開放されるあの声音、巫呪の井戸を立ちのぼって来て、ふっとうたや笑い声になってしまう、鎮めの声音のたぐいだったろうと、今にして思うのです。化けるまではゆかなかった気ちがいさまが、稚(おさ)ない孫と交わしあった世界はしかし、化けて出たいものの愉悦にみちていました。

                        (『あやとり祭文』石牟礼道子)

このエッセイの最後で三日月さまの夜に舟で不知火海を渡っていく哀れな狐たちは、石牟礼道子に作家の道を歩ませた水俣病の患者たちそのものです。

水俣病といえば--石牟礼道子の文章にはときおり「悶え神」という言葉が現れます。

 人の悲しみを自分の悲しみとして悶える人間、ことにそのような老女のことをわたしの地方では<悶え神>というが、同じく人の喜びをわが喜びとする人間のことを<喜び神さま>とも称していた。

                        (『自我と神との間』石牟礼道子)

彼女が自分の中にこの悶え神の資質を見ていたことは想像に難くありません。悶え神と呼ばれるものたちは無力で、「この世の無常の一切について、悶え悲しむばかりの神として在る資質」であり、「無力さの極限によってなにかに関わる存在」なのです。

 悶え神とは、自身は無力無能であっても、ある事態や生きものたちの災禍に、全面的に感応してしまう資質者のことである。この世はおおむね不幸であるが、ことに悲嘆のきわみの時に悶え神たちが来て、共に嘆き悲しみ加勢してくれたことを、悲嘆の底に落ちたことのあるものは、生涯のよき慰めとする。その悶え神とは、ただじいっと涙をためてよりそってくるまんまんさまであったり、背中を黙って撫でて去る老婆であったり、憂わしげに、片隅から見あげている、いたいけな幼女であったりする。そして、我が身も不幸を負っているものである場合もある。

                       (『朱をつける人』石牟礼道子)

上の「まんまんさま」とは生まれつき脳に障害のあるような人のことらしく、村の人々は声をひそめて畏れ敬うようにして「あのひとはまんまんさまぞ」などと呼んでいたのだそうです。

そのような聖痕を持つ者たち、異形の者たちの中に身を置いた作家の視線は「なかば死後のまなざし」。彼女が目撃した水俣は「死者たちの国」であり、この世とあの世のあいだを往きつもどりつしてどこへも行きつけない魂が、夢とも幻ともつかないもうひとつの世界を出現させています。

石牟礼道子が彼岸花を見るとき、それは現世の岸に咲いているのか、精霊たちがゆらめく世界の岸に咲いているのか、まず彼女自身が目を凝らさねばならなかったことでしょう。視力はあってもまなざしを持たない人々には見えない世界を感知し、言葉を紡いできたのが彼女。その作品をさして鶴見和子が「巫女文学」の名を与えたのも、後年のエッセイに沖縄・久高島のイザイホーが描かれるのもうなづけるのです。

Karaimo_02

そのようにして「石牟礼道子の水俣」にはまりこんでいった私。KARAIMO BOOKSのお二人が水俣を旅したり、熊本日日新聞をわざわざ京都まで取り寄せていることに最初は少し面食らっていたのですが、読了後は自分でもかの地を訪れたいと思うように。

喫茶スペースでは、無農薬で育てられた水俣のおいしいぐり茶やみかんジュースなどがいただけます。KARAIMO BOOKSには、この素晴らしい出会いになんと感謝の言葉を申し上げればいいのかわかりません。人にまったく思いもかけない本と出会わせてもらえる愉しみ。それは書店に足を運んだ人だけについてくる、素敵なおまけです。

KARAIMO BOOKS(カライモブックス)
京都市上京区大宮通芦山寺上ル西入ル社横町301
【TEL】 075-203-1845
【OPEN】 12:00~20:00、水休

|

« 喫茶セブン@京都 | トップページ | MAUI COFFEE ROASTERS(マウイ・コーヒーロースターズ)@広尾 »

13 京都のカフェ」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/219376/44379383

この記事へのトラックバック一覧です: KARAIMO BOOKS(京都)と石牟礼道子の悶え神:

« 喫茶セブン@京都 | トップページ | MAUI COFFEE ROASTERS(マウイ・コーヒーロースターズ)@広尾 »